縄文文化の見直し
日本文化は、アジアの先進地域から水稲稲作文化が伝えられ、農業国日本の基礎ができた弥生時代に始まり、そして畿内のヤマト政権を中心に国家が形成されたと考えられてきた。一方、弥生時代以前に日本列島で一万年ほど続いた縄文文化は、先住民が残したもので、厳しい自然環境下で、数棟の草葺竪穴住居に住み、土器や石器を使って狩猟採集による貧しいその日暮らしを続け、土偶や石棒などの呪い具で祈りだけの原始的な生活だったと説明されてきた。
だが、昭和三十年前後からの目覚しい経済成長は、縄文文化についても革新的な発掘成果が挙がり、その文化の実像がにわかに明らかになってきた。ここでは、大きく見直しが進んだ実像から日本人の基層文化を一万年以上育み、維持した縄文文化のすばらしさについて学んでいただけたら幸いである。
現代日本人の祖先の文化
南北に長い日本列島は、海に囲まれ、平野部、河川、丘陵、山岳など多様な地形と季節の移ろいがあり、各地に多様で豊かな自然環境・生態系を形成していた。寒冷期であった更新世の日本列島に住み始めた私たちの祖先は、数万年前の旧石器時代以来、遊動生活を続けていた。そして、約一万五千年前から現代とほぼ同じ温暖な完新世に向かって、自然環境が大きく変化し始めた。それに伴って、新しい自然環境に適した定住生活や生業を始め、土器、石鏃、磨製石斧、釣り針などの道具類を使用するようになった。
縄文人は、現代人より10数センチ小柄ながら、がっしりした体格であった。乳幼児死亡率は高いが、大人になった人の死亡年齢は、40歳±10歳がピークであった。虫歯率が高く、栄養・発育障害もほとんど認められないので、豊かな食生活を送り、長生であったようだ。しかし、骨折が多く認められ、怪我やウイルス性の疾患などで、死亡することが多かったともいわれている。
安定した定住生活と集落
縄文人は、竪穴や掘立柱のイエに住み、大型建物、地下式貯蔵穴、墓地をつくった。土地造成して、集落内に竪穴建物や墓地などの諸施設を配置し、これらの建設には「縄文尺(約35cm)」を用いたり、「設計計画」を持ち、掘削・盛り土・整地などによる土地造成、水路掘削・護岸など、かなり進んだ土木技術も駆使していた。
竪穴建物は、地下を円形や方形に掘り窪め、掘った土を周囲に巡らしたり、屋根に被せて土屋根とした。冬暖かく夏涼しい日本列島の風土に適した住居で、一万年近く築き続けられ、東北日本では古代末まで住居などに用いられた。集落周辺には水場、粘土採掘穴など設け、集落内の諸施設や集落の外とも道で結んでいた。
特に水場は、飲み水の確保、木の実の虫殺しや灰汁抜き、木器や繊維製品の素材・未製品の水漬け・さらしなどのための重要な施設であり、中期末以降には木組みのトチノミ灰汁抜き施設を設置した。居住域の周辺には、クリ・ウルシ林などを育て、周辺の森も管理・育成していた。これらの人為的生態系は、現代につながる「縄文里山」であった。つまり環境の良い土地に予想外に各種の施設を配置し、各種の道具・施設と技、食料の保存加工と貯蔵などによって、安定した定住を送っていた実態が明きからになった。
彼らは、大人・中人が2・3人と乳幼児が一つの竪穴住居に住む場合と、それらを単位にして2・3棟の竪穴住居に分散居住した大家族の場合もあったようだ。そして夏には、地域によって掘立建物に住んでいた。他に集落内には、暮らしのための諸施設の他に、環状列石や送りのための「盛り土遺構」・貝塚などを設置して祭儀・祭祀も共同で行い、平等な争いのない集団生活を営んでいた。なお、北海道洞爺湖町入江貝塚などでは、ポリオに罹った青年を育てたと思われる例があるなど、相互扶助・福祉も発達していたようだ。
豊かな自然の恵みで自給自足
人々は、自然の季節的な恵みを巧みな技や諸施設・道具類を用いて採集した。主体は、ドングリ・トチノミ・クリなどの木の実、物証があるだけでもワラビ・ノビル・コゴミ・などの山菜、キノコ、根茎類などを採取し、食料や薬として利用した。一部では、少量ながらマメ類・ヒョウタン・エゴマなどを栽培していた。また、沿海部や内陸湖沼地帯では、丸木舟、漁労施設、漁具が発達して、漁労活動が活発で、すでに水産国日本の基層文化が形成されていた。そしてシカ・イノシシを捕獲し、イヌを飼い、一部でイノシシを飼養していた。しかし、栽培は補助的なものであり、牧畜も発達させずに、自然と協調して共に暮していた。
季節折々に多量に採れる旬の自然の恵みを利用し、たくさん採った根茎類などは地下式貯蔵穴に貯え、肉・魚は燻製にし、魚や貝なども干して保存食料とした。料理は土器で煮炊きし、魚貝は生で食べることもあった。日本食の原型は、縄文食に基盤があるようだ。
自然物素材の有効利用
集落周辺の「里山」に育つ動植物の特性を熟知し、それらから採れる素材も余すところなく利用した。草木では、木材、樹皮、繊維などが利用された。特にクリは、実だけでなく、材は建物の柱などの構造材、木製容器の素材にも多く用いられた。また木材の特性を熟知して各種の木製品を作り、木を細く裂いた枌、蔓などでザル・カゴなどの編組製品、カラムシやアカソなどの繊維で編み布などを作った。これらに漆を塗って仕上げた漆製品は、祭りや祈りの道具・衣装となった。
漆は、まずウルシ林を数年間育て、樹液(漆)を採り、調整・加工して、顔料を混ぜ、ゴミ・カスなどを編布で漉し取って精製し、用意していた木製品・編組製品・繊維製品などに塗って丁寧に仕上げた。数年先を見越してウルシを植え、数ヶ月掛けて手の込んだ工程を経て仕上げた製品は工芸の極致であった。
また里山などに住む獣類の骨・角から素材を調達し、各種の骨角器を作った。土器も集落近辺から調達した粘土で、文様や形に願いを込めて多量に作った。主に煮炊きや祭りの道具、土器棺などに使用され、日本の縄文文化を特色付けている。工芸的に優れた土器・漆製品は、世界最古であり、世界に誇れる文化である。物作り日本の技術的基盤と物作りの心は、後に素材は変化したものもあるが、縄文時代にすでに出来上がっていた。
手工業生産と物流 日本列島の各地には色々な特産品がある。各地の黒曜石、東北日本の頁岩、近畿中国のサヌカイトなどの良質な石器素材、玉類の素材として貴重なヒスイやコハクなどがある。北日本日本海側の天然アスファルトも、接着剤として重要であった。また赤色顔料には、褐鉄鉱・赤色鉱石などを砕いたり、鉄分を多く含んだ土を焼き・煮沸して精製したベンガラ、辰砂を精製した水銀朱があった。また貝剥き加工場には巨大な貝塚が残され、炉で貝を茹で、干した貝を多量生産していた。また縄文時代も終わりに近づくと、焼いた貝殻・灰・砂土・海水を混ぜて作った漆喰や石を並べて浜辺に炉を作り、そこに薄手で無文の塩作り専用土器を並べ、一方で海水を海藻に掛けて夏の天日で濃縮し、その塩水を専用土器に注ぎ足して周りから火をたいて煮詰めて塩を採っていた。漆、顔料、塩、アスファルト、食料品など多くの物が、すでに手工業的に生産・加工されていたことが明らかになっている。
これらの素材・製品は、数百キロ圏の遠隔地にも運ばれていた。集落間のネットワーク、物流拠点集落の存在が推定でき、丸木舟を用いた物流が盛んであった。また、南西諸島や伊豆七島などの南島で作ったオオツタノハ・イモガイ・タカラガイ製の玉類や腕輪、ヒスイの玉類・素材も、千キロを越える遠隔地まで運ばれていたし、黒曜石は朝鮮半島やロシアの沿海地方・サハリンまで分布していた。
豊かな縄文的精神と哲学
集落の中心広場には、祖霊を祭る墓地や環状列石を置き、ムラはずれや山・川も祭りや祈りの場になった。動植物や山や岩石に至るまでの万物に命やカミが宿ると信じ、物を大切にして祈り・祭った。このような自然・カミガミ(八百万のカミ)に囲まれ、自然に生かされて生きる精神文化を発達させた。居住域の周辺には、貝塚や「盛り土遺構」などカミへの送り場を設置し、人の遺体や壊れた道具類、食べかすまで納めて送った。定住が確立してからは、祭祀が発達し、特に中期以降は縄文文化固有の土偶、石棒、土版・岩版などの祈りや祭りの道具類が、各地で発達して多種多様になった。
縄文学の勧め
日本の生活文化や精神文化の基盤は、ほとんど縄文時代に形成された。自然の恵みを活かして自然素材を巧に利用した高度な物作り技術が発達した。縄・紐、編組製品、漆製品、縄文土器、骨角製漁労具などに代表される、物作り日本の原点が見られる。また自然界の万物に宿るカミを信じ敬い、自然に生かされて生きる豊かな精神文化を発達させた。つまり、日本列島の各地の環境・生態系に適合した文化を発達させ、日本文化の基礎を築いていた。
先祖から現代に伝えられ維持されてきた日本固有の文化は、急速な科学や物質文化の発達によって、ややもすると本質が見失われている。環境が悪化し、社会問題が山積し、精神も荒廃している。今ここで立ち止まって列島各地に最もふさわしかった持続的な縄文文化について学び、参考にして自然環境の再生、アイデンティティ・日本人としての誇りを確認し、人を尊重して助け合う社会、物を大切にする心などを取り戻したい。史跡は、人々とのふれあいの場、コミュニティとして活用し、自然と共に歴史的空間として町作り、町のシンボルとして活かせたらいいと思う。
(著書『縄文の生活誌』講談社・『縄文の漆』同成社、東松島市縄文村歴史資料館名誉館長・元文化庁主任文化財調査官)
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